真実の響き

もしかしたら人は寂しさや孤独に包まれると歌を唄い、踊り出すのかも知れない。僕が生まれ育った家、そこには沢山の人達が奏でる歌と踊りがあった。

元バイオリニスト、ヨシノブさんが弾く哀愁たっぷりの「支那の夜」。自衛隊の吹奏楽出身のフルーティスト、オオイシさんの奏でるエチュード。タイガースのローディー(アシスタントのような仕事)でドラムセットを叩いていたミキちゃん。オオタカさんの篠笛。僕の最初の先生である、もう一人のミキちゃんの篳篥。鉢巻と腰巻で娘の真似をして歌い踊る、イガラシさんの「酋長の娘」。クマゾウさんの浪曲。ケイちゃんの日記の朗読。ツネアキさんの「よしたかちゃん」。

僕の周りには音楽の先生がいっぱい居た。中でもゼンイチさんが奏でるハーモニカは優しい音がしていた。楽器を手のひらで包むように持ち、左手でビブラートをかけながらゆっくりと吹き始める。ゼンイチさんは父親の事業が倒産し、母と弟の3人で新潟から出て来た一家の長男だった。母シマさんは明治36年1月7日生まれ。僕は昭和36年1月7日生まれ。誕生日が偶然同じだったのでシマさんは特別に目をかけてくれた。僕達兄弟を寝かしつける時、雪深いふるさと、新潟の話を度々してくれた。「雪が深くて2階から出入りする時もある」とか「雪のトンネルの中を歩いて買い物に行く」なんていう話を聞く度に僕達は空想の世界に浸っていた。

ゼンイチさんが、メロディーだけでなく伴奏も1人でしながらゆっくり奏でる曲はいつも「ふるさと」だった。その演奏には風景を感じた。子供心にも当時は未だ見たことの無い雪深い新潟の風景を想像することが出来た。哀愁漂うイイ音だった。ゼンイチさんのハーモニカを聞くのが本当に楽しみだった。

実は僕もゼンイチさんを真似て、かなり前からハーモニカを吹いている。上等な楽器も買ってみた。でもどんなに真似てみても、あの響きを出す事は出来ずにいる。昔バイブルのように大切に何度も何度も読み返した渡辺貞夫さんの「僕自身の為のジャズ」という本があるのだが、その本の見開きに書かれていたジャズサックス奏者チャーリーパーカーの言葉を思い出す。

「音楽とは君自身の経験であり、君の思想であり、君の知恵なのだ。もし君がまことの生活を送らなければ、君の楽器は真実のひびきをもたないであろう」

音楽家になった今でも、僕の目標の1つなんだ。いつの日にかゼンイチさんのように演奏したいと、ずっと思っている。

2002.11.29 update

画:稲葉明徳

僕の父親

僕の父は、様々な事情で行き場をなくし困っている人を家に引取り、社会復帰させる活動をしていたんだ。そんな訳で、僕が生れた頃から僕の家には沢山の人が住んでいた。事業に失敗し行き場を無くした人、病気で身寄りが無く行き場のない老人、夫の度重なる暴力から逃げて来た母子、人を傷つけてしまった青年、登校拒否の少年、酒乱の人等…様々な人と同居してきた。様々な人がいれば、様々な事件も起きた。

夜寝ていると両親の寝室から「てめぇ〜この野郎!」と大きな怒鳴り声が聞こえた。吃驚して目覚めると、お酒に酔った喧嘩の強いAさんが、夜の夜中(多分2時半頃)に親父に文句を言いに来たのであった。静まりかえった真夜中の怒鳴り声。凄い緊張感だった。僕は隣の部屋に居たんだけれど、恐怖心で足が竦み、親父を助けに行けなかった。ただ成りゆきを見守る事しか出来なかったけど、親父は毅然とした態度で接していた事件。

金物屋で買い物をするのに4時間程かかってしまうKちゃん。大きなスーパーで長時間迷うのはまだ許されるけど、小さなお店で迷うと、その間中お店の人はず〜と側に居なくてはいけないからとても迷惑な事なのだ。そんな訳でお店の人から電話が入り、みんなで迎えに行った事件。

高知からやってきたMちゃんは16歳。(当時僕は6歳)家の近くで放火事件が相次いだので、夜「火の用心」をすることになった。木の棒で拍子木を作り♪カチ♪カチと2打し「火の用心!」と大きな声で唱える。これワンフレーズを繰りかえすのだ。しかしラテン系的性格のMちゃんは「♪カチ♪カチ 火の用心」の後に「たばこの火を消しましょう!」とか色々アドリブを言うのだ。ある夏の夜の事なんだけど、「♪カチ♪カチ 火の用心」と言ったらMちゃんが「寝る前に蚊取り線香も消しましょう!」と大きな声で言った。何か疑問に思った仲間の誰かが「Mちゃん、蚊取り線香は消さなくて良いんじゃないの?!」と言った。「あっ!そっかぁ」とMちゃんが言うと、今まで静かだった住宅街のあちこちから大きな笑い声が聞こえた事件。

笑い話だけでなく、本当に色々な事があった。特に長年同居した人に再出発のチャンスが訪れた時の、別れの日の喜びと寂しさ。病気で亡くなった人や、寿命を待たずに亡くなってしまった人。そこはまるで世の中の縮図のような環境だった。親父はいつもフラフラになりながら朝から晩まで働いていた。ものごころ付く頃から家族より他人を大切にする父親に対し色々反発した時期もあった僕だけど、実は先月満90歳を迎え、久し振りに家族が集合してお祝いしたんだ。今だに「世の為、人の為」とか言いながら、相変わらず張切っている親父。ここまで生きざまを貫かれると、感服してしまったよ。もう理屈でなく、愛おしく思えたよ。(笑)

2002.11.29 update

音楽の授業 

子供の頃、近所には沢山の遊び場があった。当時あまり裕福でなく幼稚園に通わなかった僕には、朝起きてから晩寝るまでの全ての時間が遊び時間だった。近所の幼なじみと朝から晩まで泥だらけになりながら走り回っていた。

そんな僕も小学校に入学する日が来た。そこで最初の音楽の授業の時、僕は大きなショックを受けた。ちゃんと幼稚園に通っていたクラスメートは色々な歌を知っていて元気よく大きな声で歌っていたのだが、僕は何も習っていなかった。46人の生徒の中で自分だけが歌えない。この経験は幼い僕にとってかなり強烈な体験だった。教科書を顔の前で大きく開き、歌っていない事が友達にバレないように顔を隠しながらごまかして歌った事を今でもはっきりと覚えている。

ここから先の話は僕には記憶があいまいで、後日、姉から聞いた話なのだが、2度目の音楽の授業から僕は早退するようになったらしい。どうやって早退したのか全く覚えていないが、当時、母親代わりだった姉が、週に1〜2度早退して来る弟を不審に思い調べたところ、音楽の授業のある日に限って早退している事が判明。そのわけを問いただすと「歌が分らない…」と言ったそうだ。そこで姉が歌を教えてくれて、僕は早退しなくなったらしい。僕の最初の音楽の授業はこんなスタートだったんだ(笑)

2002.11.05 update

初めてのお誕生会

小学校1年生の時、同級生の西村タケシ君が誕生パーティーに招待してくれた。誕生パ−ティーなんか初めての体験だったので、僕は最高の宝物を彼にあげる事にした。

放課後帰ると家にあったケーキを入れる白い箱に宝物を3つ入れ、走って西村君の家へ向かった。何か飲みながら一息吐くと1人づつプレゼントを渡し始めた。ビ−玉、お手玉、シャープペンシル等、綺麗な紙とリボンで包装してあった。そして僕の番が来て、箱を差し出した。西村君はふたを開け、中を見るや否や「こんなものいらないよ〜!」と笑った。その場の雰囲気を察して僕も笑ってごまかしたように記憶しているけど、本当はかなりショックだった。その後は何だか居ずらくなってしまい、「今日は早く帰ってこい。」とお母さんに言われたと嘘をつき、早々と引き上げて帰って来た。玄関の所で西村君のお母さんが「これをもって帰りなさい」と言って切り分けたショートケーキをワンピースくれた。最高に美味しかったけど、何だか悲しい味がした。

ちなみに僕があげた宝物は『ケロヨンの指人形』と『崎陽軒のお醤油入れ』と『紫色の書けないマジック』だった。この事を家にかえって親に話すと、次回からはプレゼント代として300円くれるようになった。この日初めて自分の家は世間と比べるとあまり裕福で無い事を自覚したのである。

2002.9.9 update

この写真は当時のものを再現したものです。崎陽軒のお醤油入れは見つからなかった。

僕の名前の由来 

小学校1年生の時の担任は、関先生という女の先生だった。普段は優しい先生だったが、宿題を忘れるとおっかなかった。

ある月曜日の朝、学校に行くと友達が宿題について何やら話していた。そうこうしている内に先生がやって来て授業が始まった。「は〜い、土曜日に出した宿題、自分の名前の由来を順番に発表してもらいます。」と先生が言った。

『あっ!忘れた。そういえば前の宿題も忘れて、ゲンコツもらったんだった…』その時僕は、宿題の答えを自分なりに勝手に創作して、答える事を決心した。『あきのりだから…え〜っと…え〜と』

廊下側の人から発表が始まり、教室の真ん中より少し後側の少し窓側に座っていた僕の番が来るまでには15分位の時間があったのではないだろうか?…とにかく自分の持ってる知識を全部使い、真剣に答えを考えた。そして僕の番がやって来た。「それでは稲葉君!」

『は〜い。僕が生まれる時、お母さんが海苔(ノリ)を食べ飽き(アキ)たので、「アキノリ」と付けました!』

「わっっはっはっは〜」教室中が大きな笑い声に包まれた。先生も笑っていた。そして「もう一度聞いてきなさい」と言った。僕は真剣に考えて答えたんだ。決して冗談を言ったつもりじゃなかったんだ…。

1986.7.23台湾孔子廟にて

【本当の由来】 孔子の教え(儒教)を書いた四書五経の大學という章の經一章の書き出しに「大學之道 在明明徳 在親民 在止於至善」とあり、ここから抜き出したそうです。明徳とは「人が天から与えられた神の如く仁義禮智の善徳=天然自然の法則」を言い、学問をする事で天然自然の法則を明らかにし、これを人々に伝える事が大事だと言う意味だそうです。

2002.8.24 update

こいのぼり

隣の家の屋根の上には大きな鯉のぼりが4月下旬頃から毎年飾られていた。しかし、僕達兄弟には鯉のぼりがなかったので、いつも羨ましく眺めていたんだ。

ある日、誰が言い出したのか、みんなで鯉のぼりを作る事にした。長〜い物干竿の先にビニール袋を取り付けて子供4〜5人で大空へ持ち上げた。「それっ〜!」…そうすると僕達の鯉のぼりは風を受けて、大空を泳ぎ始めた。

「やったぁ〜!!」子供心にも感動的で、皆で一斉に声を上げて喜んだのも束の間、強い風が吹いて、事もあろうに家の隣を走っている「池上線」の線路の方へ倒れてしまった。そればかりか悪い事は重なるもので、そこへ電車が来てしまい何と数分間電車を止めてしまったのだ。その晩は父親に怒られたよ。でも次の年の5月5日から、父は鯉のぼりを上げてくれるようになったんだ。

2002.8.24 update

画:稲葉明徳

子供の頃

5人乗りの車に大人が3人。子供が5人乗り込み出かけた夏休み。国道を走行中に交番を見つけるといつも一番下の僕が隠れさせられた。窮屈でも最高に楽しかった家族旅行。

僕が5〜6歳頃の事、兄弟で結成したバンド、その名は「ザ・ミニーズ」。しかし悲しい事に、誰も楽器が演奏出来なかった。そこで段ボール、木、たこ糸でギターを作り、ドラムはタライと洗濯洗剤の箱、シンバルは鍋の蓋を天井から吊るし、スティックは料理用の菜ばし。両親と付き合いのあった小森のオバチャマが遊びに来た時や、子供会の時に演奏した。小森のオバチャマには、かなり可愛がってもらった。

二つの親里(ふるさと)

僕が生まれ育ったのは東京都大田区。子供の頃遊んだアカツチ山の防空壕、ドングリ山の大きな木、蜂の巣やノビルを採った池上線の線路づたいの土手、マッカチン(ザリガニ)を釣った光明寺の池、多摩川…、自然に溢れ、遊び場が沢山あった。今思い返しても、全ての風景がキラキラと輝いていて僕にとってはふるさとそのものだ。今では近代的な町に変わり、アカツチ山は保育園になりドングリ山と光明寺の池はフェンスで覆われもう中へは入れない。お彼岸になると線路づたいの土手には赤、白、黄色の彼岸花が咲き、当時の面影を少しだけ残している。

僕が24歳の時に初めて訪れた新潟県三条市。ここは僕のワイフが生まれ育った美しい町だ。桃の花の咲く五月、梨の白い花の咲く頃、真っ白な冬景色、お盆休みの五十嵐川、お祭り、お墓参りの提灯行列、そして心優しい人々…。

僕にとっては最高にリラックス出来る大好きな場所なんだ。